影向寺(ようごうじ)は、曹洞宗(そうとうしゅう)のお寺です。
永禄年間の創立で、当地には浄心寺・影向寺・興福寺の三ヶ寺がありましたが明治初年にこの三寺を合併し普門山影向寺となりました。新四国四〇番札所を始め、多くの霊場を兼ねており全国から多くの方にお参りいただいております。
特に、大師大誓願の功徳聚として御守腹帯をお授けいたしております。安産祈願など、多くの方々にご信仰いただいております。また、毎年節分会には星祭を行い星祭祈祷を始め各種の御祈祷を奉修させていただいております。
年間を通じましては、子育・誕生日祈祷を行っております。詳しくはこちらをご覧下さい。ご祈祷案内
本堂正面向拝にある親子龍並に獅子、獏の彫刻があり、他各所にも信州下諏訪立川流名工立木音四郎種清の作彫刻がございます。
ぜひご覧下さい。
詳しくはこちらをご覧下さい。影向寺 立川流について
影向寺 立川流彫刻について
立川流彫刻と影向寺
知多には立川流彫刻の山車は多くあるが寺社・仏閣では、今まで二代立川音和四郎富昌作の亀崎秋葉社しか確認されていなかった。平成4年暮れに静岡の立川流彫刻研究家から影向寺は立川流ではないかと連絡があり、暮れに仮調査を行い立川流であることが確認された。また、平成5年6月12日に南知多町社教立ち会いのもと、立川流彫刻研究所が正式調査を行った。影向寺本堂は、江戸末期ごろ立川音四郎種清と知多の立川一門の共同作で、知多における本格的な建造物としては初めての発見であった。
本堂向拝彫刻は立川音四郎、本堂内部は知多一門の作であり、この調査で本堂内部にある弘法大師像が納められている厨子も立川流であることが発見された。この厨子は棟札も発見され、安政7年に岸幕貞佑、立川喜四郎ら知多一門で作られたことがわかった。正面には立川流のお家芸の一つ「粟穂の鶉」が彫刻されている。また、その後の継続資料調査で立川音四郎末裔で下諏訪町の立木家より、正面虹梁下絵「菊水の図」を発見し、平成7年1月に彫刻と下絵合わせを行い影向寺のものであることが確認された。
立川流信州一門 番匠棟梁 立川音四郎種清
立川本流最高の高弟 立川音四郎種清は。本名を立川音四郎といい、天保3年(1832年)下諏訪に生まれた。近くには諏訪大社秋宮があり、幼少の頃から絵画を好み、大人を驚かすほどの作品を作ったという。16才で二代立川和四郎富昌に弟子入りした。富昌には有能な一族や弟子が多くいたが、音四郎はその中でも目立つ技能を発揮していった。二代立川和四郎富昌、三代富重の代作を行うようにもなった。立川姓も許され、諏訪大社宮司から種清という彫刻号も拝領し立川流棟梁として活躍した。
勝海舟との出会い 幕末から明治にかけては独立的な活動をし、全国各地の仕事に従事した。尾張では藩主の依頼で床置、欄間を彫刻した。長野県では、明治9年松本の開智小学校に続き下諏訪に二つ目の小学校が作られた。そこの正門は龍門と呼ばれ、音四郎が龍の彫刻を施した門である。明治21年の皇居造営に「賢輔の間」を担当し腕をふるっている。27年頃には勝海舟の依頼によって佐久間象山の銅像の原型を作っている。その折、勝海舟より資料として贈られた佐久間象山の写真の原盤が立木家で保存されている。立木家が建築部門が出来なくなった明治初期から明治後半まで立木本流の建築・彫刻を守ってきた最後の人である。明治41年77歳で東京にて没した。
知多一門との合流 音四郎は三代富重の代行として何度も知多を訪れるうちに知多一門と強いつながりが出来ていた。半田市乙川の立木喜四郎は知多一門でも彫刻専門で技術も高かった人だが、とりわけ親しかったようだ。明治20年頃、立木喜
四郎は東京に住んでいたが、そこに音四郎は寄宿していたことが立木家の手紙資料から判明している。幕末の頃、立川和四郎の名前の陰で表舞台にあまり出てこないが、実質知多では中心になって活躍した立川本流の中でも最も優れた名工である。